あたたかい家庭には、いつも家族の笑顔と美味しそうなにおいが立ち込める。特別な食材じゃなくても、家族のことを想って作ったごはんは特別なごちそう。

毎日のごはんが、家族の絆になる。日々の何気ないごはんを写真と文章に収めることで、そんなことに気づいてもらえるコラムを綴ります。

神代の景気

バブル景気になる前、武蔵野市が、藤村体操音楽学校の地上権を購入。その後手入れされないまま荒れていた跡地を、吉祥寺商店街の青年たちがボランティアで整地した。ここはのちに伊勢丹(現コピス)になる。

今回は私の体験した景気のお話をしたいと思います。
昭和 20 年 8 月に太平洋戦争が終わりました。国民学校(小学校)の三年生だった私は「日本は神の国だから絶対に戦争に負けない。いざとなったら神風が吹いて敵を撃退してくれる」と教え込まれていました。しかし、実際は神風は吹かず日本は戦争に敗れ、敗戦の惨めさを体験しました。あの頃は日本全国民が貧しく、ひもじさや寒さに耐えた時代でした。 “神代の景気” の続きを読む

魔法の四畳半


当時のらかんにはオールマイティの四畳半がありました。 この部屋の中心に半畳(90cm 四方)の掘コタツがあり、足を下ろすと椅子に座っている状態になります。
寒い時期は足元に火(炭)を入れると体がよく暖まり、夏になるとその部分に専用の板をのせるだけで、一 年中テーブルとして使える重宝な掘コタツでした。

吉祥寺の写真館

昭和30年代は写真館のほか、写真材料店、DP店も数多くありました。

昭和 30 年代の吉祥寺周辺の営業写真館の状況についてお話いたします。

駅の北側には「らかんスタジオ」より北に向かって左回りに見ると中道 通りに「臼井写真館」、公園通りには西側に「トミノ写真場」、東側に「桑田写真館」、五日市街道を少し越した西側に「山本写真館」、駅前通りに「チトセスタジオ」、駅の東側に「杉浦写真館」と「ヴァンスタジオ」で 8 軒。駅の南側には「柴写場」と御殿山に「石川写真館」が 2 軒。1kmくらいの間になんと10 軒の写真館がありました。

そのほとんどがスタ ジオ撮影だけで生計を立てていたのですから驚きです。もっとも当時は、 自分の持ち家であれば 1 日 1 件の撮影があれば食べていけた時代だったそうです。 “吉祥寺の写真館” の続きを読む

高度成長

昭和70年頃吉祥寺らかんスタジオ
1970 年頃のらかん写真店。右側の暗い階段で2階の撮影スタジオへ

らかんスタジオがDPE店を兼業していた昭和40年から50年頃は、カメラ・フィルム産業は日本経済の一翼を担っていました。「戦後急成長したフジフィルムは、祝日の日に1日雨が降ると全体の1日分の売上額3億円がふいになり、その3億円は取り戻すことができない。」と同社の営業マンから聞いたことがあります。

確かにらかんでも土日に雨が降るとフィルムの売上が減少し、プリントの注文も少なくなるので1週間が暇になってしまいます。

『写真屋殺すにゃ刃物はいらぬ雨の三日も降ればよい』
と言われたくらいです。 “高度成長” の続きを読む