あたたかい家庭には、いつも家族の笑顔と美味しそうなにおいが立ち込める。特別な食材じゃなくても、家族のことを想って作ったごはんは特別なごちそう。

毎日のごはんが、家族の絆になる。日々の何気ないごはんを写真と文章に収めることで、そんなことに気づいてもらえるコラムを綴ります。

100周年に際し

2019年5月ニューヨーク来訪時。ラガーディア空港上空からマンハッタンを望む。

吉祥寺NYは、2002年に「いつかはNewYorkに戻るぞ」という気持ちを込めて作りました。ニューヨークと発音すると、紛らわしいのでエヌワイと発音し、本物がNewYorkに出来たら「ニューヨーク店」と命名しようと考えました。もちろん、今から20年近く前のらかんスタジオには、そのような力はありませんでした。NY(エヌワイ)というのも、少々恥ずかしい気もしましたが、夢は大きいほうが良いかと考え、思い切って命名したのです。

時は20年近く経ち、現在の体力ならば海外進出も夢ではなくなりました。もちろん、海外でも成功するだけの「強み・得意分野」に磨きをかけなくてはなりません。 “100周年に際し” の続きを読む

リンホフ・マスターテヒニカ

1989年頃、タホ湖(Lake Tahoe)にて、リンホフ・マスターテヒニカで撮影。アメリカのカリフォルニア州ネバダ州の州境のシエラネヴァダ山中にある湖。この頃は若かったので、重たいカメラと三脚を持って撮影していました。タホにはラグビーの友人が住んでいたので、1984年の冬に始めて行きました。近くには、スコーバレー(Squaw Valley)といった、オリンピックも開催された比較的規模の大きなスキー場が数カ所あり、スキーヤーの間では世界的に知られる名スキーリゾート。20才そこそこだったので、めいっぱい滑りまくりました。写真撮影には、その後、数回行きました。

あなたの道徳観、文化的習慣は、今どき?

1930年エンパイアーステイトビル
1930年に初代らかんが撮影したエンパイアーステイトビル

あなたは、前から人が来た場合、左右どちらに避けますか?

最近の交通規制では自転車は車道を走ることになりました。つまり、自転車は、右側を走ったら逆走ですから、左側通行を義務づけられたと解釈できます。ところが、自動車の走っていない小道では、右側を走ってくる自転車も少なくありません。もっとビックリするのは、年配の方たちです。「日本では人は右側通行なんだ」と言わんばかり・・・さらに、細い道でも3人横並びで、前から来る人を避けない人が多いのです。若い人たちは左側通行で、細い道では1列にという意識を持った人が多くなってきたように感じます。

右側通行(日本と左右反対)のアメリカでは、人とすれ違うときは、右に避けるが基本です。
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UberやLyftって知っている?

左側に小さく写っているいるのが「自由の女神」。場所は「ホイットニー美術館」。

皆さんの中には、すでにUberLyftを使った経験のある人がいると思います。2018110日よりニューヨークとナッシュビルに行ってきました。毎年行われている全米プロ写真家協会のコンベンションに参加するためです。
その前に、見聞を広げ、刺激を受けるためにニューヨークに寄って来ました。
ニューヨークでは、ウーバーをたくさん利用しました。

Uber(ウーバー)とは、アメリカの企業「ウーバー・テクノロジーズ」が2009年より運営しており、自動車配車をスマホアプリで簡単にできて、支払も登録したクレジットカードで完了する仕組みを作った会社です。現在は世界70カ国・地域の450都市以上で展開しているそうです。2015年には、すでに約13000億円超の売上を達成しているのだとか。

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ブルックス写真大学と私

アメリカ,大学,写真
大親友のスティーブ・ポーさんと。1987 年。 現在も写真家として活躍中。エドガー・ア ラン・ポー氏の末裔。

人生にはいろいろな原点がある。僕の写真の始まりは、カリフォルニア州サンタバーバラという町にある「ブルックス写真大学」に学んだことに始まる。
ブルックス写真大学には1983年の 2 月に入学。忘れもしない大洪水に見舞われた 2 月だった。当時アメリカ歴訪中だったイギリスのエリザベス女王が立ち往生してしまったことが、巷では一大ニュースとして報道されていた。個人的には、それより一大事だったのが、借りたばかりの家が水没したことである。入居して 1 ヶ月も経たないうちに引っ越すハメになった。
学校では、ポートレート学科を専攻し1986年に卒業した。学校で勉強したことはたくさんあるが、今となっては「変化する大切さ」を教えてもらった気がする。

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アメリカ合衆国に行ってきました。

気温40度、湿度3%。太陽の下にいるとジリジリと暑い。6月ともなると最高気温が50度になる。しかし、5月はまだマシ。外は暑いが家の中にいるとちょうどいい感じだった。湿度が低いから汗も出ない。実際は出てもすぐに乾いてしまうのだ。今回訪れたのは、アリゾナ州フェニックスから車で40分ほどのところにある、人口21万人のスコッツデールという街だ。ちなみに宇都宮の人口は 55 万人、小山は11万 5 千人である。

となりの市、フェニックスは人口132万人、面積1,230㎢。スコッツデールを含めた都市圏で325万人と非常に大きな生活圏が存在する。栃木県全部で199 万人、面積が6,408㎢と考えると、いかにコンパクトなところにたくさん人がいることが分かる。栃木県の6 分の1の面積に、栃木県民の1.5倍の人が住んでいる計算になる。もっとも栃木県みたいに山はないので条件は違うのだが。

そのフェニックスには立派な美術館があり、見学してきた。ちょうど特別展示として日本の「Samurai 展」をやっていた。「別にここまで来て、日本の鎧や兜は見なくてもいいや」と思っていたが、あまりにも入口が立派だったので中に入ってみるとビックリ仰天。

アメリカ 侍 

アメリカ 侍

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ネガ管理は鉛筆でノートに記載

吉祥寺本店は場所がら証明写真が多くありました。私が入社する以前は、証明写真の焼増の注文が入ると、手作業でネガを探すという方法だったのです。お客様からの追加注文が入ると、その手順は、お客様からアバウトな記憶による撮影日を聞き出す・・・、その「アバウトな記憶による撮影日」を基に、手書きで大学ノートに記載した記録を基に、ネガを保管している箱を特定するという、とてもローテクな作業でした。

さらに!さらにです! 箱にはおよそ500枚ほどのネガが袋に入っていて、ネガが入っている袋に名前が手書きで記載されていました。その中から一生懸命に一枚一枚めっくって、その袋を探し出すという超アナログ方式だったのです。1987年の日本。アメリカではすでにデータベース化が盛んに行われていたんだけど・・・・。しかも、日本の証明写真はすべて白黒の時代でした。なんだか、今では想像もできないほど、30年前はアナログだったのです。たった30年前ですよ。日本はバブル経済で絶頂期だったのにもかかわらず、結構ローテクでした。

お客様が来店して初回の撮影時には、名刺サイズに切った紙片に鉛筆ででお客様の名前や撮影日を記入し、ネガと照合しながら保管箱に入れるという作業もあったのです(笑)。

2016年6月オープンの仙台店

 

時は過ぎて今は2017年の3月です。あの東北を中心とした大震災から6年が過ぎました。6年前、報道で見た写真を探している家族の姿が忘れられません。あの時の思い出、あの時の会話、あの時の幸せ、それらはなかなか記憶だけでは思い出せないものです。しかし、写真を見ると、なぜか色々な記憶が蘇ります。不思議ですね。私たちは写真を撮るだけでなく、写真を撮影するきっかけになった節目を記憶に留めることが仕事なんです。ですから、その日にかけるお客様の気持ちを大切にすることが第一条件と思っています。

昨年2016年の6月にオープンした仙台店は若林区荒井という場所です。地下鉄荒井駅からすぐの場所ですが、当時、津波はそこまでは到達しなかったので、最近では一気に開発が進んでいます。しかし、若林区の海沿いでは多くの方が犠牲になりました。そのことを思うといたたまれない思いです。

私たちは、正直なところ、震災にあわれた方々に何も貢献できていません。恥ずかしい限りです。これからは、少しでも地域の方々のお役に立てればと思っています。

 

嫁の実家の雛人形。並べるだけで大変な作業です。

ひな祭りに向けて、嫁の実家では「氏家雛めぐり」というイベントがあり、毎年たくさん昔の雛人形を飾っているのです。これもまた、昔からある家族を思う風習なんだろうなぁと思いました。

 

30年以上!うっ!ビックリすぎるw

Brooksという写真学校を卒業したのが1986年の3月。それから現在まで(30年以上!うっ!ビックリすぎる)、写真一筋でやってきた。思えば色々あったなぁ。らかんスタジオに入社したのは1987年で、当時は本店しかなく、写真スタジオが2階、1階はカメラ店だった。

 

1970年、私が10歳のとき。父は懸命に働いていた。

学校写真も叔父が主に担当していて、いわゆる写真業務全般を請け負う兼業店であった。吉祥寺の中心地に古くからやっていたこともあり、フィルム現像は1日に数百本を受注する日もあった。となりのロンロン(現アトレ)という駅ビルにも小さいながらお店があり、そこでも同じく1日に100本は受注していたと思う。

197年代の店舗は古い2階建てだった。その上に中央線に向かってネオンサインが乗っていた。

最初は父が始めたのだが、1987年からは僕が毎朝ひとりで8時30分には店を開けて、通勤客がフィルムを置いて行くのを受け付けていた。10年は続けただろうか。社員さん達は9時30分に出社なので、その間の1時間はひとりで切り盛りした。暇なときは日経新聞を読んだり、忙しいときは、2階のスタジオで証明写真も撮ったりしていた。でも、僕は一貫して「撮影」をやりたかった。なぜなら、らかんスタジオは元々は写真館であったし、僕自身、写真学校を卒業して撮影技術が大好きだったからなんだ。