あたたかい家庭には、いつも家族の笑顔と美味しそうなにおいが立ち込める。特別な食材じゃなくても、家族のことを想って作ったごはんは特別なごちそう。
毎日のごはんが、家族の絆になる。日々の何気ないごはんを写真と文章に収めることで、そんなことに気づいてもらえるコラムを綴ります。
太平洋戦争前の昭和16年頃、吉祥寺には9軒の写真館がありましたが、現在残っているのはらかんスタジオだけです。また戦後、写真材料店が雨後の筍のようにたくさんできました。カラー時代が到来し、カメラが売れた時代は大いに繁盛しましたが、吉祥寺でデジタル時代に生き残れた写真店はらかん以外1軒もありませんでした。
らかんスタジオは初代がニューヨークで写真スタジオを始めてから今年で100年を超えました。前述のように消滅しかけた危機が何回かありましたが、その都度一生懸命生き残る方策を模索し、なんとか凌ぎ切って今日に至りました。
ネバーギヴアップ!継続は力なり!好きな言葉です。らかんスタジオはこれからもお客さまの信頼を裏切らないよう研鑽に励み、写真で社会のお役に立ち続ける覚悟です。
「100年の足跡」完。
写真スタジオで証明写真やポートレイトを撮影するよりもアマチュア対象でフィルムやカメラ販売やDPE作業の方が忙しく、安定した営業がしばらく続きました。
1992年アメリカの写真大学で最新知識を学んだ長男観が帰国してきました。時代はデジタル写真撮影とコンピューター顧客管理の幕開け時代でした。その頃日本ではそのような最新技術で営業している人はほとんどいませんでしたが、息子観のやる気と信念を信じて、盛業中の写真材料店をきっぱりやめ、デジタル写真撮影専門のスタジオに切り替えたのです。
当初は、データーサイズが小さく思うような発色が得られなかったり、印画紙との相性が合わなかったりいろいろ苦労がありましたが、ひとつづつクリアし、さらには撮影技術や接客術の向上研究を徹底し、お客さまの全幅の信頼を得るまでに成長してきました。
昭和55年頃、DPの取り扱いが多忙を極め、カメラ販売も順調に伸び店頭の品揃えも充実してきたある日、中年の紳士が店頭に現れ、「贈答品に使うカメラを数台現金で買いたい」と言ってきました。零細小売店としては嬉しい話なので指定のニコンやキャノンなどのカメラ6~7台を急いでまとめて烏山まで弟が配達しました。「支払いは現金ではなく先付け小切手だというがどうする」と弟から電話がありましたが、当時の私は勉強不足で手形や小切手の知識がなかったので多少の不安を抱きつつも「小切手でもいいよ」と言ってしまったのです。
しかし確認のため直ちに銀行に問い合わせたところ、手配されている不渡り小切手と分かりました。すぐ弟が事務所に押しかけて留守番の女性を問い詰めましたが、すでに品物はどこかに運ばれていてありません。警察にも届け手を尽くしましたが結局何も戻ることなく丸損してしまいました。
勉強賃としては高額で、大きなショックを受けました。後学のために恥を忍んで記しておきます。
モノクロ写真の時代からカラーの時代に変わり、アマチュアカメラマンたちも爆発的に増えて活気が出てきました。らかんはDPEを主体にした営業でしたが、ニコン、キャノン、フジ、ミノルタ、コニカ、オリンパス、アサヒ、ヤシカをはじめ新興の国産カメラが次々に製造されて、カメラを販売するようになっていきます。
当時は新製品のカメラをまとめて50台仕入れると海外旅行にご招待などという豪華なサービスもありました。またカラープリントを請け負う会社もこぞって旅行サービスを実施し、我々小売店は楽しい思いをさせてもらったバブル時代がありました。今は昔の夢物語です。
吉祥寺の町中の店舗兼住宅は子供の養育には不都合なので銀行から借金をして武蔵野市に隣接した練馬区立野町に自宅を建てました。周囲は畑が多く5月ごろになると農家の屋敷林にカッコウが来て良い声で鳴くのが聞こえます。庭もあったので鶏やアヒル、犬も飼いました。
店までの通勤は60ccのホンダカブでした。ある霧雨の夜バイクで帰宅途中、対向車の強いヘッドライトの光がけぶる霧の向こうから見えた時、信号のない横断歩道から飛び出してきた男性を避けようとして転倒し気絶!救急車初体験と1ヶ月余りの入院生活を初体験しました。この時命が絶えていればらかんの100年も絶え今はなかったと思います。