70年代に入るとカメラも安くなり、一般の人も写真を撮りはじめ、白黒写真からカラー写真の時代になりました。60年代の後半あたりから徐々に、カラーへ移行をはじめていましたが、それが本格化してきたのです。
60年代は、自宅に暗室があり、自分で白黒写真を現像・プリントしている人も多く見られました。しかし70年代になるにつれ、カラー写真の現像時に使用する薬品が、白黒写真の現像時とは異なるため、自宅ではプリント出来ず、フィルムを現像所に出すということが主流になりました。
70年代に入るとカメラも安くなり、一般の人も写真を撮りはじめ、白黒写真からカラー写真の時代になりました。60年代の後半あたりから徐々に、カラーへ移行をはじめていましたが、それが本格化してきたのです。
60年代は、自宅に暗室があり、自分で白黒写真を現像・プリントしている人も多く見られました。しかし70年代になるにつれ、カラー写真の現像時に使用する薬品が、白黒写真の現像時とは異なるため、自宅ではプリント出来ず、フィルムを現像所に出すということが主流になりました。
昭和30年頃、その頃はまだ戦後の混乱状況から立ち直ってはいない頃でした。
店名は「写真のらかん」と称していたり、「カメラのらかん」と言ったりしていました。記念写真を撮影に来るお客様はとても少なかった時代です。
もともとは、写真撮影専門だったのですが、戦後は国民すべてが飢えていて、お子様や家族写真を撮影するゆとりがなかったのです。
当時は写真よりも食べるものが優先でした。写真は「不要不急」と言われていたのです。
らかんスタジオと名乗ったのは1921年ニューヨーク5番街店からでしたが、実はその前に「フォトスタジオ」として最初のスタジオを開店していました。
バラック建て2軒長屋の左の店舗です。2階部分にPHOTOSTUDIOと書かれています。
場所ははっきりしませんが、ニューヨークの東地区と聞いたことがあります。右隣はペンキ屋さんが店名を書いている最中ですが、たぶんローリングゲームの店だと思います。玉ころがしゲーム屋さんでしょうか。
1920年に初代鈴木清作が創設したこのPHOTOSTUDIOこそが、今のらかんスタジオの前身であり発端です。
このころ中山岩太という渡米して間もない若い写真家と出会い、翌1921年にアメリカ最大の高級繁華街5番街に進出することになりました。そしてスタジオ名をらかんスタジオとしたのです。
進出に必要な費用は、1914年に渡米後、働いて溜めた資金でほとんど鈴木が負担したそうです。
1927年、野口英世博士がアフリカへ出発される直前、博士のご依頼により、ポートレートを数カット撮影している。
当時、博士は時折、ニューヨークの日本人会に顔を出し、よく将棋をさされていた。その日本人会で、らかんは博士と親しくなり、写真撮影のご依頼を受けることになったのであった。
撮影はロックフェラー研究所で行なわれた。 アフリカに出発直前の慌しいときだったとのことで、博士の表情には少しお疲れの様子が見える。
この一風変わったスタジオ名は、一体どういうわけでつけられたのか。 よく聞かれる質問である。
1921年ニューヨーク五番街にスタジオを開設するに当り、その館名を何とつけようかと随分考えたそうである。
日本人として誇れるような、東洋的な名称をということで、いろいろ頭をひねったそうであるが、結局、ラカンという言葉に行きついたのであった。
その意味は、五百羅漢の羅漢で、悟りを得た人間、聖者のことである。 ラカンという音がアメリカ人の耳にもよく響くということで 命名されたそうだ。
そして、RAKAN ではなく、LAQUAN と綴ることによって、 フランス的な洒落れた感覚にしたそうである。日本文字で表 わすときは、上の画像のように変体がなを使った。そして、 創業者の鈴木清作は1924年から『らかん』を自分の雅号とし、LAQUAN・ SUZUKI と名乗って作品を発表し続けたのである。