あたたかい家庭には、いつも家族の笑顔と美味しそうなにおいが立ち込める。特別な食材じゃなくても、家族のことを想って作ったごはんは特別なごちそう。

毎日のごはんが、家族の絆になる。日々の何気ないごはんを写真と文章に収めることで、そんなことに気づいてもらえるコラムを綴ります。

100年の足跡 <3:贋札作り?•••>

仮店舗の暗室と小磯暗室マン。

カラーの処理は外注しましたが、まだまだ需要が多かった白黒のフィルムの
現像(D)プリント(P)引き伸ばし(E)は自店舗の暗室で行いました。早朝から夕方までにお預かりしたものを閉店後に処理するので、終わるのは真夜中になります。

半自動プリンターを夜中に動かして1枚10円のL版をプリントしていると、10円札を次々に印刷しているような錯覚を起こし罪悪感がちらついたことがありました。面白くて楽しい日々でした。若さに任せて年中無休で働き多忙な毎日でしたが営業成績は向上し大きな利潤が生まれました。

100年の足跡 <2:DP屋時代•••>

カラーはラボに外注した。

苦しい時代を乗り切って写真スタジオに戻したのでしたが、戦後の疲弊・混乱で思うように収益が上りません。その頃からカメラを持つアマチュアが増えてきてフィルムの現像やプリントの仕事が忙しくなってきました。やがて、カメラも取り扱うようになり、カラーフィルムが普及して来るのです。ちょうど英国からビートルズが来日した頃のお話です。

世の中の景気が良くなって来るのに並行してモノクロの時代からカラー時代に転換していきました。カラーフィルムの現像や焼付は専門の業者に交渉・依頼してスピーディにお客さんに渡せる仕組みにしました。

100年の足跡 <1:苦しい時代•••>

戦後、三鷹新川雑貨屋時代店番は弟公宜。

らかんスタジオと命名してから今年で100年を迎えましたが、100年の間には山あり谷ありで継続が難しい時期も何回かありました。一番危なかったのはやはり太平洋戦争の時でした。強制的にスタジオが取り壊され三鷹に疎開した頃の世相はひどい食糧難で、写真館で写真撮影するような人はまずいなかった時代です。そんな時三鷹では雑貨屋をやって凌ぎました。

敗戦後、雑貨屋を続けながら吉祥寺の元いたところに戻り、バラックを建てて惣菜屋をやりました。世の中が少し落ち着いた昭和25年頃に本来の仕事である写真スタジオに戻したのです。

武蔵通り(ツバメ通り)

ハモニカ横丁西側通り。昭和32年。

この写真は、ハモニカ横丁の西端の路地です。現在は広く整備されて歩きやすくなっていますが、以前はこんなに狭くごちゃごちゃしていました。当時はツバメパチンコ店が隆盛を極めていましたので「ツバメ通り」と呼ばれていましたが、現在名称は「武蔵通り」になっています。

終戦直後は闇市だったこの一帯は、昭和32年頃には赤提灯の飲み屋街に変わっていました。

20歳の頃私が居酒屋で飲んでいたのは安い芋焼酎が多く、たまには宝焼酎の梅割りやブドウ割りも飲んでいました。1ー2年後には合成酒も飲んでいましたが、早く日本酒(二級酒)が飲めるようになりたいとかわいい夢を持っていました。

同所反対側から撮影。昭和57年頃。

パルコ予定地

昭和53年、平和通りらかんスタジオの木造2階建屋根上より撮影。

写真左手の公園通り(吉祥寺通り)に野村證券、その先に東急百貨店が見えているのでどの辺りを撮影したか位置がわかると思います。
中央部分には、太平信用金庫、横田不動産、春木屋時計店、小美濃京染店、釜屋金物店、ふじや呉服店、真下不動産、近江屋玩具店、北海屋乾物店、春木屋洋品店、高橋金物。もみじや洋装店、吉田布団店、鳥勝、栄喜堂パン。映画館、喫茶店エルザ。ファンキーなどがありましたが立ち退き、この一帯にパルコが建設されることになりました。

そして1980(昭和55)年にパルコが出店したことにより大型店が出揃い、吉祥寺の再開発工事はようやく形がついたと言えると思います。この後も数年はビル建設の槌音が町に響いていました。
思えば昭和44年暮れに駅ビルロンロンが開店して以来十数年、田舎街だった吉祥寺が、近代型都市に生まれ変わり開花する姿をこの目で見られたのは幸せでした。