あたたかい家庭には、いつも家族の笑顔と美味しそうなにおいが立ち込める。特別な食材じゃなくても、家族のことを想って作ったごはんは特別なごちそう。

毎日のごはんが、家族の絆になる。日々の何気ないごはんを写真と文章に収めることで、そんなことに気づいてもらえるコラムを綴ります。

創設時のらかんスタジオ

スタジオ外観
らかんスタジオの前身のスタジオ外観

らかんスタジオと名乗ったのは1921年ニューヨーク5番街店からでしたが、実はその前に「フォトスタジオ」として最初のスタジオを開店していました。
バラック建て2軒長屋の左の店舗です。2階部分にPHOTOSTUDIOと書かれています。

場所ははっきりしませんが、ニューヨークの東地区と聞いたことがあります。右隣はペンキ屋さんが店名を書いている最中ですが、たぶんローリングゲームの店だと思います。玉ころがしゲーム屋さんでしょうか。

1920年に初代鈴木清作が創設したこのPHOTOSTUDIOこそが、今のらかんスタジオの前身であり発端です。

このころ中山岩太という渡米して間もない若い写真家と出会い、翌1921年にアメリカ最大の高級繁華街5番街に進出することになりました。そしてスタジオ名をらかんスタジオとしたのです。

進出に必要な費用は、1914年に渡米後、働いて溜めた資金でほとんど鈴木が負担したそうです。

野口英世博士

野口英世博士・撮影した数カットの内の1枚
野口英世博士・撮影した数カットの内の1枚。

1927年、野口英世博士がアフリカへ出発される直前、博士のご依頼により、ポートレートを数カット撮影している。

当時、博士は時折、ニューヨークの日本人会に顔を出し、よく将棋をさされていた。その日本人会で、らかんは博士と親しくなり、写真撮影のご依頼を受けることになったのであった。

撮影はロックフェラー研究所で行なわれた。 アフリカに出発直前の慌しいときだったとのことで、博士の表情には少しお疲れの様子が見える。

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らかんスタジオ命名の由来

らかんスタジオ 写真館
らかんスタジの初代ロゴ

この一風変わったスタジオ名は、一体どういうわけでつけられたのか。 よく聞かれる質問である。

1921年ニューヨーク五番街にスタジオを開設するに当り、その館名を何とつけようかと随分考えたそうである。

日本人として誇れるような、東洋的な名称をということで、いろいろ頭をひねったそうであるが、結局、ラカンという言葉に行きついたのであった。

その意味は、五百羅漢の羅漢で、悟りを得た人間、聖者のことである。 ラカンという音がアメリカ人の耳にもよく響くということで 命名されたそうだ。

そして、RAKAN ではなく、LAQUAN と綴ることによって、 フランス的な洒落れた感覚にしたそうである。日本文字で表 わすときは、上の画像のように変体がなを使った。そして、 創業者の鈴木清作は1924年から『らかん』を自分の雅号とし、LAQUAN・ SUZUKI と名乗って作品を発表し続けたのである。

「たった1着からのスタート」

今では写真館で衣装をレンタル するのは当たり前ですが、こんな エピソードがあったのです

仙台店がオープンして間も無い頃、社長から誘われて店舗を見学してきました。 仙台店は、ゆったりとした造りで撮影用の貸衣裳は他の店舗と同様にズラリと揃って並んでいました。
5歳男児の着物を見ながら、 ふと40 年ほど前のらかんスタジオの光景を思い出しました。

その当時の写真館には、貸衣裳の用意はありませんでした。「もちは餅屋」と言われるように「写真館」と「貸衣裳店」はそれぞれの領分がはっきりとしていました。ところがある時から貸衣裳店が写真を撮影するようになったのです。
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「トイレなし、ヒルメシなし」

バッキンガム宮殿の衛兵のような洋服で撮った鈴木観の七五三写真

「昼食もトイレタイムもない!」なんて、これってブラック企業ですよね。
実はらかんも 30 年くらい前までは、年に2日間だけこのような日がありました。

その2日間というのは、1月15日の「成人式の日」と11月15日の「七五三の日」です。

昭和23年(1948年)に国民の祝日法ができ、成人式は1月15日となりました。これは平成11年(1999 年)まで続きましたが連休を増やすために移動できる祝日「ハッピーマンデー」をつくり、 成人式は固定ではなくなりました。

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