らかんスタジオがDPE店を兼業していた昭和40年から50年頃は、カメラ・フィルム産業は日本経済の一翼を担っていました。「戦後急成長したフジフィルムは、祝日の日に1日雨が降ると全体の1日分の売上額3億円がふいになり、その3億円は取り戻すことができない。」と同社の営業マンから聞いたことがあります。
確かにらかんでも土日に雨が降るとフィルムの売上が減少し、プリントの注文も少なくなるので1週間が暇になってしまいます。
『写真屋殺すにゃ刃物はいらぬ雨の三日も降ればよい』
と言われたくらいです。
高度成長期になると、日本中のDPE店は最盛期を迎えました。昭和44年、吉祥寺の中央線高架下にロンロン(現在アトレ)商店街ができ、らかんもその中に出店し(2坪)、DPEの取次ぎとカメラフィルムの販売をしました。 朝夕の出勤客やお買物客で人通りが多いので坪効率が高く、とても繁盛しました。
一方フジフィルムは、カメラとフィルムを合体させた使い捨てカメラ「写るんです」を開発。ミノルタカメラは、宇宙船で使用されて日本のカメラの質の高さが認められるようになりました。日本の「ものづくり文化」は この頃から世界に向けて頭角を表していました。この時期カラーの現像所 が増え、さらにフジフィルムがミニプリンターを開発すると、各DPE店が自家ラボをはじめるようになりました。ふと気づくとらかんの周りには、 たばこ屋、薬屋、米屋、雑貨屋と多くの店がカラープリントの取次ぎをす るようになり、カラープリントの売上も少しずつ減少していったのです。
折しも現観社長がアメリカ留学から帰ってきて、彼の地で得た豊富な知識をスタジオに活かしたいと胸を膨らませていました。そこで、思い切ってデジタル一本化のスタジオ経営に大きく舵を切り替えたのです。当時は、打出の小槌のDPE部門を切り捨てたのですから経済的には大変でした。しかし、数年後には、乱立したカラー現像所の大方が廃業していました。このような変遷をたどりながら、 らかんスタジオは写真一筋で生き残ってきたのです。