写真館に嫁いで その2

昭和53年頃の吉祥寺
らかん本店の前にあった乾物屋北海屋さん。ちぢみのシャツにステテコが制服だった。ここは現在パルコになっている。(昭和 53 年頃)

先の戦争で日本は敗れ、昭和20年代から30年代は日本中が貧しかった時代でした。

らかんスタジオの場合、昭和20年4月に国の命令で建物を強制的に壊されてしまいました。これを「強制疎開」といいます。駅の線路側の建物は、敵方に爆撃されて火災になると軍需物資を運ぶのに不都合という理由です。

戦争とは、このような理不尽がまかり通るのです。しかも、終戦の4ヵ月前のことだったのです。らかんの店舗は、止む無く三鷹新川に疎開しました。戦後は吉祥寺に戻ってきましたが、とても写真館だけでは生活ができません。この間、母スエは一人新川で雑貨屋を営み、皆の生計を支えてくれたのです。
一方、らかんではスタジオ運営の他、DPE、フィルムなどの物品販売も兼ねることにしました。当時は、物品が少なくカメラ、フィルム、印画紙などは写真材料商組合に加入しなければ入手できない時代でした。
ここで育男の行った改革は、朝9時前に開店し、出勤前のお客様から預かったフィルムを現像プリントして、帰宅時にお渡しできるようにしたのです。今では当たり前のことですが、その頃は全て悠長に時間が流れていましたから、これは大当たりしました。売上が数倍に伸びたのです。
ちなみにプリント代は、白黒1枚10円、カラー(すぐ色が褪せてしまう)は1枚70円でした。このDPEのおかげでらかんはとても力がつきました。白黒からカラー写真へと移行し、全盛期にはカラーラボ(現像所)に支払う金額が毎月 1300万円程になりました。