私は小学生のころから暗室が大好きで、現像液に浸した白い紙から、画像が浮き出てくるのを「なんて不思議だ、まるで魔法を見ているようだ」と、飽きもせず見ていました。暗室は面白いところだと思い始めたのです。
暗室は定着液に使う酢酸のすっぱい匂いに、現像液のアルカリの匂いが混ざって、独特の匂いがしていました。長じてから、覆い焼き、焼き込みの技術を習得し、得意わざにしていました。
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ニッポン・カメラ・クラブを主宰
1926年4月、らかんはニッポン・カメラ・クラブを組織し、アマチュアを対象に、主として得意の絵画調写真の指導に当った。
翌1927年1月には、101丁目の自宅スタジオを会場にして、第1回の作品展を開いている。
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ポートレイト
ニューヨークらかんスタジオは、男性客と女性客がほぼ同じくらいありました。人物写真の撮影が主体で、特に男性ポー トレイトを得意にしていたのです。
ほとんどは顔が大きいアップの写真です。
初代の清作は、これらを「ビッグヘッド」と呼んでいました。
写真師
30 〜 40年前まで 写真館の館主は先生と呼ばれていた写真師でした。
先生を意味する「師」が 付く理由は、1862年日本に初めて写真館が開設されたころから長い間、 先進的な科学や化学の幅広い知識と、芸術的な感性をも持っていて、社会の中で一目置かれる存在だったからです。
日本で「カメラマン」は、日常語になっていますけれど、欧米でカメラマン
と言えば、新聞社やTV 局などの報道カメラマンのことをそう言っていて、私たちのような写真家のことは、「フォトグラファー」 といって区別されています。
戦後「おい写真屋!」などと小馬鹿にされた時代もちょっとありましたが、最近はそんなことは言われなくなりました。昔の「先生」ではなくても良いですが、私たちは絶えず勉強して、写真家、フォトグラファーの地位は保持したいものです。
会長が見つめてきた歴史の変遷【1980年代】
80年代はカラーフィルムの全盛期で、フジフィルム・コダック・コニカの勢いがあった時代です。
らかんスタジオは、70 年代後半と変わらず、大量のフィルムをお客様からお預かりして現像する取り次ぎ業務が多かったです。80 年代後半から 90 年代にかけては売上も良く、とても良い時代でした。 “会長が見つめてきた歴史の変遷【1980年代】” の続きを読む